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事務所通信追伸

事務所通信追伸は、代表である平本が時事情報やその時感じていることをまとめたコラムです。

お客様企業や金融機関などへ事務所通信とともに毎月お送りしております。

事務所通信は、税法はもちろん、経営・人事労務などの最新情報をタイムリーに掲載している月刊誌です。

ここでは過去お送りした事務所通信追伸のうち、いくつかを抜粋して掲載しています。

株式会社 マスカット薬局 様

2024年7月号

 5月9日の日本経済新聞スポーツ欄の「逆風順風」の記事から引用します。


 攻守交代の合間も、せっせと働いているのが、オリックスの一塁コーチャーを務める田口壮外野守備走塁コーチだ。攻撃が終わっても、すぐにはベンチに戻らず、走者や一塁手の足でできたデコボコをならす。

 なぜそこまで丁寧に?西武戦後に尋ねると「今日は(土が)軟らかくて、守るのも大変だろうと思ったので。」一塁手のため、イレギュラーバウンドしないようにする気配りだ。実はこの試合に限らず、どの球場でも行っている。(中略)

 どれだけイレギュラーの確率を抑えられるかわからない。けれども、やれるだけのことはしておかないと、事が起こったとき、悔いが残る。何一つ、自分の思い通りにならない戦いの現場。だからこそ、ささいなことまで徹底し、こっち側にはやり残しがない、と確認する。その心境は祈りに近いように思われる。(以下略)


 引用を終わります。ずいぶん昔のことです。平本税理士事務所の継続が「危ない。」と感じた時がありました。開業して何年かあった赤字の時ではありません。スタッフのことでした。悩んで悩んで、自問自答を繰り返す中で浮かんできた言葉が、「できることは全部やる。」でした。これしかなかったです。全部やったと思えたら、ほんの少しだけ落ち着き、やがて危機は去って行きました。

 赤字のお客様に正対した際に「できることは全部されていますか?」と、訊くことがあります。過去の自分の苦しさを思い出しつつなので、絞り出すような声になりますが……

 続けて記事の後半を引用します。


 一発勝負が多い社会人、高校野球でよく聞くのが、選手がトイレなどの掃除を徹底している、という話だ。これも、ままならない世界での祈りかもしれない。

 「トイレが汚いところにはいい『気』が流れていない感じがする。掃除をしたから打てるようになるかというと、全くわからないけれど。」(都市対抗でENEOSを4度の優勝に導いている大久保秀昭監督)(中略)

 相手があることだ。やるだけやっても、報われるとは限らない。それでも行いに悔いがなければ、そこまで敗戦や失敗を引きずらず、前に進めそうだ。勝負の世界の厳しさが、それぞれの祈りを生む。


 引用を終わります。記事の前半もそうですが、後半についても「祈り」と言うよりは「やって当たり前のことでは?」と私は思います。トイレがきれいな会社とそうでない会社で、どちらの利益が多いでしょうか。当たり前のことを徹底してやらずに、経営が良くなるでしょうか。


2024年4月号

 あおば税理士法人のホームページをリニューアルしました。その中の「お客様紹介・お客様の声」のコーナーで、私どものお客様である津山国産材加工協同組合さんが出演されたテレビ番組「ドキュメント戦略経営者」(BS11)を見ることができます。津山国産材加工さんは、同じコーナーに登場下さっている株式会社ヤマシタさんのグループ企業です。

 この番組の出演依頼は、スポンサーである㈱TKCから来ました。選定理由は、経営者である廣澤専務理事さんが、TKC FX4クラウドの変動損益計算書を大変よくご覧になっているからです。

 廣澤さんは事業の実態をよく把握され、番組の中でも確信と自信を持ってお話されています。また、私どもの末道税理士も、限界利益や在庫を把握する大切さをしっかり語ってくれています。廣澤さんも末道もなかなかカッコいいです。是非ご覧いただき、皆様方の業績アップのヒントにしていただければと思っています。

 ホームページの一新に際し、私は制作者に「自主的に動くスタッフを前面に出してほしい」とお願いしました。それが私どもの事務所の一番の売りだからです。

 しかし、昔はそうではなかったです。なぜかと今思えば、顔から火が出るほどお恥ずかしいですが、経営者である私がスタッフの足を引っ張っていたからです。言い方は様々でしたが、何かにつけ「もっと頑張ってほしい。」と伝えていました。さすがに口にしたことはありませんが、心の中で「なんで経営者の言う通り動かんのかな?」と思ったことさえありました。(何もわかってなかったです。)

 ところが、7年近く前、退職者が相次ぎ、ちょうど産休・育休に入ったスタッフもいて、

 事務所が回らなくなりました。そこで私は諦めたのです。自分が望むような働き方をしてほしい、と思うことを…そして、難局を乗り越えるよう、少ないスタッフにお願いしました。

 するとどうでしょう。最初は少しずつ、スタッフが自主的に、また私どもの経営理念にある「前向きに」動いてくれるようになったのです。私がああだこうだ言わなくても「○○していいですか?」「こうしましょう」と言ってくれることが、どんどん増えてきたのです。

 何かの本か新聞で「諦めるとは、明らかを見極めると言う意味もある。」と読んだことがあります。人には各々人間性があって、強制より自主を好みます。自主的に動くために人間性を大切にするのではなく、人間性は尊重されるものだから、そうする。その結果、自主的に動いてくれる。そのこともまた人間性尊重になる。こういうことが、やっとわかってきました。

2023年9月号

 先月、批評家の若松英輔さんの「人生の隠された意味、人生の秘義を体現する人は、必ずしも世にいう成功者ではない。ひたむきに生きる市井の人たちのなかにも賢者は存在する。」という言葉を紹介し、賢者は、中小企業で働かれている皆さんや、中小企業支援を仕事にされている方々の中にもいるはずだと申し上げました。

 小学5年生から高校まで私と同級だった親友KTのお父さんもそうでした。ずいぶん前の追伸で、私の母が農業機械の工場で臨時工として働いていたことを書きました。KTのお父さん(Tさん、以下同じ)はその会社の部長さんで、いわゆる偉い人でした。

 母の作業着からは油のにおいがしたことも書きました。その母が一度だけ仕事の愚痴を言ったことがあります。「事務の女性たちが私らを汚そうに見る。」とこぼしたのです。小学生の私はつらかったです。

 けれども続けて母はこう言いました。「でも、Tさんは私らにも普通に話をしてくれる」。私はほっとし、Tさんを心から「カッコええ!」と思い、自分もそんな大人になろうと強く思いました。

 KTの家はステキな新築で、自分の家はボロかったです。私は劣等感を持っていました。しかし、KTもKTのお母さんも私に普通に接してくれました。

 「人はみんなが平等。人に上下はない」という言葉をいくら読んでも、心の底にドンと落ちることはないような気がします。こういう真理(まことのことわり)は、人から学ぶことによってこそ本当に身につくのではないでしょうか。

 よく「誰々の形骸(けいがい)から学んだ」と見聞きします。人は、自分が接する人の中に真理を見出し、その人への強い憧れが動機になって、その真理を体得するのだと私は思います。

 この春、実家に帰省中のKTから連絡があり、何年かぶりでT家を訪ねました。その2日程前にKTのご両親が2人とも動けなくなって、KTは弟さんと東京から急遽駆けつけたそうです。

 90歳にしてなおダンディなTさんは、「平さん(ひらさん)のお母さんはお元気かな?」と尋ねてくれました。母が数年前に他界したことを話すと、Tさんは「そうかな…」と悲しそうにつぶやきました。私は、母がTさんに感謝していたことを話すと、黙って優しく微笑んでくれました。

 ご両親は結局、東京近郊の施設に入居することになりました。KTに頼まれて時々ポストをのぞきに行くとき、一抹の寂しさを感じます。けれども、感謝の気持ちを伝えられて、少しだけほっとしています。

2023年2月号

 城山三郎の「男子の本懐」を読みました。

 主人公は浜口雄幸(おさち)と井上準之助です。写真は国立国会図書館のサイトからのもので、上が浜口総理大臣、下が井上大蔵大臣です。二人は昭和初期に、金輸出の解禁すなわち金本位制への復帰に取り組みました。

 第一次大戦下でやむを得ず金本位制を中止していた世界の主要国は、大戦の終結とともにこの異常な措置を解除しました。他方で日本は金解禁の好機を逸し、そのため円の為替相場が動揺し、慢性的な通貨不足に悩まされていました。この金解禁は歴代内閣の最重要課題だったのです。

 ところが、これを実施するには前もって金準備を増やし、強力な緊縮財政により国内物価を引き下げる必要がありました。軍事費削減、行政改革、予想される不景気に反対する軍部、官僚、財界の強い反発が想定されました。にもかかわらず、国際競争力をつけ財政基盤を固めるため、激しい抵抗に臆することなく不退転の決意でこの難関に挑んだのが浜口と井上のコンビでした。

 二人は性格的には正反対でした。城山氏は「静の浜口、動の井上」と称しています。浜口は総理就任時の組閣で、特別親しくもなく政治的にも距離があった井上に大蔵大臣就任を請いました。意外に感じた井上も浜口の熱意に押され、金解禁に向けてタッグを組みます。二人とも人の好き嫌いを超越していたのです。

 他方、二人に共通していたのは「強烈な左遷時代があった。」ということです。その不遇に二人とも腐らず、浜口は目前の塩業の再編という地味な仕事に粘り強く取り組み、井上は何もすることがないニューヨークでひたすら勉学に励みます。

 二人の並々ならぬ努力をここに要約するなど私には不可能ですが、読みながら「今の政治家と違い過ぎる。」と痛切に感じました。アベノミクス以来の積極財政と異常な金融緩和が、当時の状況と似ているように思えてなりません。国民に不人気であっても、腹を据えてやるべき事をやる政治家をわれわれは見出すことはできないのでしょうか。

もう一つの二人の共通点は、二人とも最後は凶弾に倒れたということです。東京の青山墓地には二人の墓が並んで立っているそうです。一度墓参したいと思った次第です。


2022年12月号

 以前お話ししたように、4月から毎月1回(2日)関西学院大学の「税理士のための会計講座」に通いましたが、この10月で無事修了しました。今回はそこでの学びから……

 複式簿記は13世紀のイタリアで始まりました。当時の帳簿が博物館にあり、その写真を見ると、表紙に(英語にすれば)「In Name of the GOD」(神の名の下に)と書かれています。

 当時は、記帳を始める前にその帳簿を教会に持参し、「この帳簿に真実を記載することを神に誓います。」と宣誓し、牧師がその帳簿に証明印を押したそうです。

 記帳とはそれほどに神聖な(まじめなダジャレながら真正な)ものだったのです。今年から皆様方には、電子帳簿保存法による電子データの電子保存をご指導申し上げています。来年10月からは消費税の日本型インボイス制度がスタートします。もしも、ご面倒と感じられたら、「昔のイタリア人は『神の名の下に』とやったんだ。」と思い出していただければ幸いです。


 そもそもの帳簿の起源には、証拠力の確保や円滑な事業承継がありました。売買の一つ一つの取引を記録することによってその証拠力を確保し、自分が請求したお金の回収と、他の商人からの過大な請求を防止したりしたのです。また、自分が亡き後の家族や子孫に「誰から仕入れ、誰に売っていたか」を伝えることによって、商売が円滑に続くようにしたのです。

 複式簿記と言いますが、経済取引をするとお金が二つ動くから「複式」とあるのです。掛けの売上が起きると、売上高が発生し売掛金という債権が増えます。売掛金を現金で回収すれば、売掛金が減って現金が増えます。その現金を銀行に預けると、現金が減って預金が増えます。ですから「複式」の「式」に人工的な意味はなく、自然現象を捉えているのが本当なのです。「複式」という言葉が難しいという印象を与えすぎているような気が私はしています。

 自然現象の記録なので、江戸時代の日本にも複式簿記はありました。特に近江(今の滋賀県)では盛んに用いられていました。イタリアでも近江でも、記帳していた商人が記帳していなかった商人より、長年にわたり繁栄した事実があります。近江商人という言葉はあっても、残念ながら備前商人という言葉が残っていないのは、帳簿の差なのかもしれません。ちなみに、近江商人にルーツを持つ企業としては、髙島屋、西武グループ、伊藤忠商事、丸紅、ヤンマー、東洋紡、日本生命、武田薬品工業などがあります。

 私どものスタッフが、日々の正確な記帳をお願いしているのも、皆様方の経営が継続し、発展されることを祈念しているからこそです。

2022年9月号

 今月号に「続く原材料価格の高騰!どうする値上げ・価格の見直し」とあります。お考えの際には、FX2シリーズの限界利益を確認していただきたいです。参考にならない場合もあるかもしれませんが、何らかのヒントがあるのではないかと思っています。

 さて、私と同じTKC会員で、渡辺忠という熱血漢の税理士が埼玉にいます。その彼が講演で「渡辺家の家訓に『一日一回空を見ろ。』というのがあります。」と話したことを、10年以上たった今でも覚えています。彼はその家訓を「目先のことに追われず、心に余裕を持たせることが大切」という趣旨で話していたと記憶しています。

 この話が自分の心中に残ったので、私はほぼ毎日一回は空を眺めています。決して彼への義理立てではなく、やってみると何となく気持ちが落ち着くので、今では習慣になってしまいました。

 また、ウチの事務所のOGが在職中の日報に「空は一番身近な大自然だと思います。」と書いてくれたことがあります。北海道に行こうが、アラスカに行こうが、確かに空が一番の大自然です。ただし、宇宙を感じられる星空は別格です。

 そして、いつだったかの新聞で記者が「四季の中で夏の空が一番美しい。」と書いていました。

 よく愛でられるのは秋の空ですが、確かに夏の空の方がきれいだと私も思います。ちなみに、この駄文を書いている合間に、事務所の窓から撮ったのが上の写真です。


 夏空を眺めていて、思い出しました。私の両親は共働きだったので、子どもの頃の夏休みには父母の実家によく預けられていました。父の実家は松江市内にあり、すぐ目の前にある松江城の石垣に登ったり、蝉取りをして遊んでいました。しかし、より長くいたのは島根半島の漁村にある母の実家の方です。母は9人の兄弟姉妹だったので、村におじおばやいとこが多くいたこともありますが、海水のきれいな日本海で毎日でも泳げるのが一番の魅力でした。

 泳ぐだけでなく、砂浜や磯でも遊びました。遊び疲れると仰向けになって海にプカプカ浮かび、海水を介して蝉の声を聞きつつ、青い青い空をぼうっと眺めていました。だから、夏空が好きなのかもしれません。子どもの頃の記憶は長く残るような気がします。

 孫が小学生位になったら、きれいな海で一緒にプカプカ浮かびたいと思っています。


2022年5月号

  あおば税理士法人では、時に応じて全員の共通認識を明確にする目的で「カードワーク」なるものをやっています。


 昨年4月には今春の新卒採用を決めました。するとスタッフが「採用基準を作るためのカードワークをしましょう。」と提案してくれました。そこで月一回の会議内で時間を作り、「私たちの仕事(に求められるもの)って何ですか?」というテーマでカードワークをすることにしました。

 まず、各人が小さなラベル12枚程度に言葉を書きます。全員が書けたら、順番に説明しながら一枚ずつ大きな模造紙の上に置いていきます。その際、人の意見を否定しないのがルールです。関連するラベルは、取りあえずまとめて置くようにします。

 こうして全員のラベルが出そろったら、本当のまとめをします。小分類、中分類、大分類と階層別にまとめて並べますが、各々のまとまりにはまとめる言葉をつけます。否定しないルールなので様々な意見があり、まとめるのは難しいです。しかし、まとめないと日々の業務で使えるものにならないので、まとめはとても大切です。みんなで一緒に考えます。(ただし、私はあまり口を挟まないです。)

 こうして完成品を見てみると、自分たちの仕事の本質をみんなで共感を持って共通認識することができます。このカードワークをするようになってから、事務所の雰囲気もとても良くなりました。


2021年11月号

 先月号で、お客様の会社で社員さん向けの決算説明をする機会があったことを書きました。その時人に話をしながら、なぜ自分が税理士になったのか気づきました。

 私は小学生の頃から習っていた算盤が性に合っていて、中学生の頃は岡山南高校の商業科に進もうと思っていました。しかし、友達のほとんどが普通科志望であることを受験1年前に知り、慌てて勉強して高校の普通科に入りました。

 その流れで大学に行くことにし、もともと商業科志望だったので商学部や経営学部を考えるようになり、その中でも算盤のイメージに一番近い気がした(完全に勘違いですね。)会計学科に進むことにしました。

 大学生になってから「資格が取れたらいいか」位の気持ちで、会計士と税理士の違いを調べました。大雑把ですが、会計士は大企業がクライアントで主に都会で働く、税理士は中小企業がお客様で都会でも地方でも働ける、と理解しました。

 大学が首都圏にあったので会計士になる同級生が多かったにもかかわらず、Uターン志向があった自分は税理士試験にトライすることにしました。もっとも科目別試験がうまくいかず、いったん6年間会社勤めをしましたが、結局は税理士になりました。


 私が決算説明をしながら気づいたのは、自分が「中小企業が好きだったんだ。」ということです。その気持ちの元は両親に由来します。父は大企業勤めでしたが、作業着を着て仕事をしていました。母は、昨年12月号に書いたように、農機具工場の臨時工として働いていました。だから、そんな作業着姿で働く人から遠くない場所で働きたいという気持ちがあったことにその時気づいたのです。

 両親にお礼を言おうにも既に亡くなっています。もっとも、生きていても照れくさくて言えなかった気がします。身近な人に大切なことが言えていないことはある、と今さらながら思います。


 さて話は変わって、岸田内閣が発足しました。総裁選では候補者全員の政策がいわゆるバラマキだったと私は認識しています。しかし、安倍さんも菅さんも日銀まで巻き込んでのバラマキを繰り返しながら、経済は一向に改善せず、財政赤字だけが積み上がりました。消費に制限があるコロナ禍の中では、バラマキは余計に効果がありません。

 給付対象は被害産業と生活困窮者に限定し、医療体制の充実や営業指針の策定など真のコロナ感染対策に集中してほしいと願っています。それが一番の景気対策でしょう。


2021年8月号

 私どもはお客様に、日々の正確な会計データ入力をご指導申し上げています。これは会社法432条に「適時に正確な会計帳簿を作成しなければならない。」とあるからです。

 しかし、そこには「法令を遵守しましょう。」より、もっと大きな意味があります。

 この記帳義務規定を世界史の視点で見ると、1674年フランスのルイ14世商事王令に由来します。当時のフランスでは経済の衰退に伴い、破産や詐欺破産が社会問題化していました。財務大臣のコルベールの命を受け、破産者の調査をした学者のサヴァリーは、ある共通点に気づきます。

 それは、破産した者の会計帳簿の記帳は、たいていの場合いい加減ということです。

 偉い!と私が思うのは、サヴァリーのマイナスからプラスへの思考転換です。彼は「では、破産を防止し、むしろ商売を発展させ、本人も国家もよくなるために、記帳を義務化しよう。」と考えたのです。

(日本の道路交通法には「最高速度を超えて進行してはならない。」とありますが、「最高速度以下で進行すれば、目的地に安全にたどり着けますよ。」とも言っていると私は思います。)

 こうして、世界で初めての商業帳簿規定である商事王令の第1条に「卸売並びに小売を行う商人は、帳簿を備え、これに一切の取引(中略)を記載しなければ    

ならない。」と書かれました。(ちなみに、当時は記帳を始める前に、まっさらの帳簿を教会に持って行き、「私はこの帳簿に真実を記載します。」と神に誓ったそうです。)

 サヴァリーは「資産、負債について作成する財産目録によって、自己の営業成績が芳しくないことを知るに至った人たちは、そのような状況を知らない場合に比して、はるかに容易に対応策をとりうることもまた本当である。」と語り、「自分自身に説明し報告すること」の大切さを訴えています。

 国税庁の令和元年度分の会社標本調査では、欠損法人割合は61.6%でした。ところが、私どものお客様では、その61.6%以上が逆に黒字です。これは、皆様方の経営努力はもちろんながら、ご自身の会計的状況を自己報告・検証されていることが寄与しているはずです。

 私どもがお客様に、破産などもってのほか、継続・発展していただきたいと切に願い、日々の会計データの入力(記帳)を愚直に訴えているのは、以上のような背景があるからです。



2021年7月号

 20代の頃に無能唱元(むのう しょうげん)氏というお坊さんが書いた本を読みました。ところが、僧侶にしては型破りすぎて、あまりついて行けませんでした。

 しかし、60代ともなると「理解不能な部分があっても全否定はよくない。」と思えるようになりました。そして、氏のことを思い出し、別の著書を読んでみました。やはり「それは違うよなぁ。」という所はあるのですが、「そうだよな。」と思える所も多々ありました。

 最も印象に残ったのはある人生相談の話です。

 登校拒否の中学生男子の母親から無能和尚が相談を受けました。ありとあらゆる努力をしても自室に閉じこもったままの息子に父親も母親も疲れ果て、家庭の中は暴力こそないものの暗く険悪な空気に満ちていました。

 母親の話を聴いた後で和尚が話した言葉は、なんと「諦めなさい。」の一言でした。人づてにわらにもすがる思いで相談に来ていた彼女は、目を三角にして怒ったそうです。その母親に和尚が放った二言目は「あなたの家庭で一番大切なことは何ですか?」です。戸惑う彼女に和尚は続けます。「家庭は平和が一番でしょう。家族みんなが笑って暮らすこと、これが最も大切ではないですか。それに比べたら学校に行かないことはいいじゃないですか。」

 その母親はさすがにすぐには納得できませんでした。しかし、結局は和尚の助言の通り、学校に行きなさいとは一切言わず、家で一緒にテレビを見たりして、とにかく怒らず、笑える時は笑うようにしました。

 そうしたら、二ヶ月もたたない内にお子さんは「僕、学校に行く」と言い出し、その後高校受験にもチャレンジすることにしました。

 この話は「肩の力を抜いたら思う通りに動いてくれた。」ではありません。「家庭は平和が一番」だから「ずっと登校拒否でもそれを受け入れる」ということです。

 要は一番大切なことを一番に大切にするということです。一番大切な「家庭の平和」より一番大切ではない「学校に行く」を優先させたから、その家庭はおかしくなったのです。

 私はお恥ずかしながら開業して6年間も赤字で、借入金もここに書けないくらい多かったです。(今ではおかげさまで実質無借金です。感謝。)子煩悩なのに子どもと晩ご飯を一緒に食べられるのはほぼ土日だけでした。今でも後悔しています。

 真理は普遍です。今回の話は会社でも同じだと私は考えます。皆さんは会社で一番大切なことを一番大切にしておられるでしょうか。経営で「何が一番大切か」は家庭以上に難しいです。(必ずしもお金とは限らないような気がします。)

2020年12月号

 かつてある親友が話してくれたことです。真夏に道路工事の現場を通りかかったら、向こうから小学生を連れたお母さんがやって来た。すれ違いざまに聞いたその母親の言葉が、「○○ちゃん、ちゃんと勉強しないとああなるのよ。」だったそうです。

 正義感の強い親友は激怒していました。「ろくな大人にならんわ。あの子がかわいそうじゃ!」と……私も同感でした。「おじちゃん達ががんばってくれるから、みんなが便利に道路を使えるのよ。」と子どもに話すのが本物の親だと二人で話しました。

  

 私の娘が中三や高三の頃、私は夜に学習塾に娘を迎えに行っていました。なにせ反抗期なので、車中でちょっと話しかけても「黙っといて」と言われることが多く、たいていは沈黙の時間でした。

 ところが、受験前の真冬のことが多かったですが、一所懸命に道路工事をしている人達を見かけると、娘は「おじちゃん達、がんばっとるなぁ。私もがんばろう。」と話すのです。私は内心「ええ子に育ってくれたなぁ。ありがたい。」としみじみ思ったものです。


 以上二つのことを、先月、娘婿と孫と三人で車に乗っていた時に思い出し、ムコ殿に話した次第です。

 彼には話しませんでしたが、3年前に亡くなった私の母のことも思い出しました。

 私の母は、私が小三の頃から、農機具工場の臨時工として働いていました。夕方帰ってきた母の作業着からは油のにおいがしました。そのにおいに母の仕事の大変さを思いました。(ちなみに、父も作業服を着ての仕事でした。)だから、私は作業着姿の人に敬意を持っています。逆に、油まみれや泥まみれで働く人を見下す人は大嫌いです。

 けれども、母に「一所懸命働いてくれて、ありがとう」と話したことはありません。

 大学は授業料の高い私立は受験しませんでした。模擬試験で、大の苦手な数学がない難関の某大学を書いてみたら、合格確率75%以上と出ました。しかし、家計のことを考えると、県外に進学させてもらうのが関の山で、模試の結果は両親に一言も話さずじまいです。

 そして、初任給13万5千円の社会人になってから結婚するまで、毎月3万円の仕送りをしましたが、それよりも、先の感謝の言葉を伝えなかったことをずっと後悔しています。

 岡山にUターンして近くに住んだのが、多少の罪滅ぼしでしょうか。

 それでも、やはり悔やまれます。母は娘の花嫁姿を目にすることなく亡くなりました。その前に、母が目の中に入れても痛くないほどかわいがっていた娘のその一言を、伝えておけばよかったです。

2020年10月号

 35年前の8月12日に起きた日航123便墜落事故は、その2か月前に交通事故で父を亡くした自分にとって、いまだに心に残るものがあります。ネットで見つけた上毛新聞(群馬県)の記事から引用(一部改編)します。


 35年前、当時17歳だった東京都の木内志津子さんは、自宅で受験勉強中に事故を知った。犠牲になったのは大阪府の高校生 木内静子さん(当時17歳)。友人と神奈川県内を旅行し、帰る途中だった。ニュースの字幕の同姓同名「キウチ シズコ」を見て、志津子さんは眠れないほど動揺したという。

 「人生を歩みたくても歩めなかった同い年の女の子がいた。」毎年の命日には手を合わせて祈り、事故の写真展も見に行った。ずっと静子さんや家族のことが心に引っ掛かっていた。

 2005年、志津子さんは偶然、静子さんのことを伝える新聞記事を見つけ、それから5年後に思い切って静子さんの母親に手紙を書いた。手紙や電話での交流が始まった。静子さんはチェッカーズの藤井フミヤさんや事故前年に発売された菓子「コアラのマーチ」が好きだったと知った。血のつながりはもちろん、面識もない。それでも志津子さんにとって第二の家族のような存在になっていった。

 4日。志津子さんは濃緑に包まれた登山道で尾根を目指した。10年ほど介護してきた両親をみとり、初めて慰霊登山を決めた。墓標を前に35年分の思いを伝えた。「落ち込んだとき、めそめそしたとき、静子さんの存在がいつもそばにありました。静子さんの分まで強く生きていきたい。」涙ながらに「コアラのマーチ」を供えると「やっと会えた」と表情を緩ませた。

 静子さんの家族は事故の翌年、大阪府から群馬県の沼田市に移住した。毎年、誕生日のある5月と命日の8月12日には慰霊登山を続けてきた。母親(74)は「今でも夢に出てきてほしいと思うほどかわいかった。事故から35年がたっても思いは同じ。しーちゃんに会いたい。」最愛の娘を失った苦悩は今なお消えることはない。それでも、静子さんを思い続けてくれる志津子さんの存在が一筋の光になってきたという。

 母親は「しーちゃんをずっと思ってくれる志津子さんの存在はありがたい」と語った。来年は、夫婦と志津子さんの三人で、御巣鷹山に登る。


 引用を終わります。文中に「血のつながりはもちろん、面識もない。」とあります。それでも、二人のシズコさんはつながっている。この人と人の不思議なご縁を、コロナ禍で人と人のつながりがますます薄くなっていく中で、大切にしたいと私は強く思います。




2020年3月号

 正月の初夢で富士山を見ました。家内と一緒に伊豆を歩いていて、空を見上げたら、青々とした富士山がそびえていたのです。今年は更にツキそうです。

 さて、人と「合う、合わない」という話を、職場についてもたまに耳にします。しかし、職場というある目的(私は理念追求だと思っていますが、ここでは利益追求でもいいでしょう。)のために一緒に働く以上、人の好き嫌いは、捨てろとはまでは言いませんが、脇に置くのが本当、あるいはプロのあり方ではないかと私は思っています。

 

 昨年12月12日の日本経済新聞「逆風順風」(篠山正幸記者)に、かつての広島の黄金バッテリーである大野豊投手と達川光男捕手のことが書かれていました。

 記事の3日前にあった、年間最優秀バッテリーを表彰するパーティで、選考委員の大野氏が明かしたのは、「おしゃべり」な達川選手とは最初は性格的に合いそうになかったということです。寡黙な大野選手とは確かに合わなかったでしょう。

 しかし、達川選手と、チームを強くしたいという思いを共にし、自分の考えと相手の考えのどっちがいい悪いでなく、常に話し合って、お互いを理解することで、信頼関係ができ、黄金バッテリーになっていったそうです。

 篠山記者は「これほどざっくばらんに語れること自体、同い年でもある2人の絆の強さを示すが、仕事上の相方選びと、肌の合う、合わないは別問題という、プロフェッショナルな人間関係のあり方がみえるようでもあった。」と書き、そして「いくらいい人で、性格的に申し分なくても、力がなければ組んでも勝てない。勝てなければ給料が上がらない。となると、多少性格は合わなくても、仕事ができる人と組んだ方がいい、ということになる。」と続けています。

 かく言う私も、サラリーマン時代、不仲な同期とダンス(ディスコ)パーティのダブル幹事をやる羽目になりました。最初は嫌でしたが、従来の3倍もの会場に変更した企画を成功させたい気持ちが強く、約1ヶ月間ほぼ連日睡眠4時間という必死の準備をした甲斐あって、パーティは大盛会。終わってみたら、彼との信頼関係ができていました。とっても不思議な感覚でした。

2019年8月号

 経済産業省のホームページにありますが、「中小企業の存在意義や魅力等に関する正しい理解を広く醸成するために」中小企業基本法の公布・施行日である7月20日が「中小企業の日」と定められました。

 広報用のロゴマークもあります。

 「日本経済を支えている多くの中小企業・小規模事業者を柱に見立て、緑の矢印で『企業の成長』を表現しています。

 昭和、平成、令和と時代が移りゆくなかで中小企業はいつの時代も日本経済を支え続けています。

 さらに日本を元気にするために“ホップ、ステップ、ジャンプ”と令和時代にさらに飛躍することの期待を込めつつ、中小企業庁のロゴにもある楕円の線とその先端の丸いオブジェクトを配し、不変の支援を続けていく決意も表現しました。」とのことです。

 カッコいいデザインかと言われると、個人的には正直「・・・」という気もします。しかししかし、表面的には必ずしもカッコよくないことこそ、逆に中小企業の本当の意味でのカッコよさだと私は思っています。いいデザインです。


 上場企業から税理士事務所すなわち中小企業に転職してからほどなく、税理士である上司から「どうだ。中小企業の世界は?」と訊かれ、私は「ええカッコせんでいいのがとってもいいです。」と答えました。(ただし、私が最初にお世話になった会社は、上場企業の中ではかなり「ええカッコせんでいい」社風でした。)

 こんな価値観は、私の父親も母親も作業服を着ての仕事だったことで作られたような気がします。ですから、私は作業服姿で働いている人を見ると、少々大げさに言うと、尊敬の気持ちがわいてきます。

 中小企業にしても作業服姿にしても、そこにより真実味を感じるから、自分は「カッコいい」と思えるような気がします。もちろん、大企業やスーツ姿に真実味がない訳ではありません。要は真実味にカッコよさを私は感じるのです。

かわいげもあるこのロゴマークを大切にしていこうと思っています。




2019年4月号

 先月に引き続き、小林慶一郎慶大教授の講演のことを続けます。

 年々膨らむ財政赤字は、いつかは将来世代が負担することになります。今の世代の負担軽減は、将来世代の負担増(大幅な増税かインフレか)になります。この点は地球温暖化対策と同じで、どちらも世代間協調問題と言えます。

 しかし、政治家は今の自分の議席を死守したいので、「将来の子供たちのために増税しましょう」とは決して言いませんし、仮にそういう人がいても投票する有権者は少ないでしょう。

 小林教授は「現代社会は個人の利己的かつ合理的な行動を容認(追求)しているので、世代を超えた超長期の政策プロジェクトは、現代社会では実現不可能」とまで仰っています。厳しい見解です。

 しかし、小林教授は諦めません。この閉塞感を打開する糸口として、高知工科大学の西條辰義教授が提唱された「フューチャーデザイン(将来設計)」というアイディアを紹介されています。

 これは「将来世代の利益代表を政治の場に出現させる」というものです。実際にこれを実践したのが岩手県の矢巾町です。

 上水道事業をどうするかの住民討論を2015年に行った際に、現代世代グループだけでなく、将来世代グループを作って議論をしました。将来世代グループとは「2060年に生きている将来人になったつもり」でその議論に加わってもらう人たちのことです。

 当時から上水道事業は黒字だったので、水道料金の値下げという選択肢もありましたが、結論は違いました。2060年までに大規模な設備更新投資が必要であること、それが年々の黒字の蓄積でも不足していることが重視され、逆に水道料金の値上げが提案されたのです。

 この仮想将来世代を政策決定の場に入れるという試みは、長野県松本市や大阪府吹田市でも行われています。利己的という限界を超えて、意思決定における世代間利他性、端的にいえば「子供たちのために、今我慢しよう」という意識を高められます。これは2015年に国連で採択されたSDGs(持続可能な開発目標)とも整合性があります。

 今の私たちが意識改革をすれば、未来の子供たちを幸せにできる、と私は考えます。

2018年5月号

 3月上旬の瀬戸内倉敷ツーデーマーチに初めて参加し、倉敷市役所から連島大橋を渡って、玉島の円通寺辺りまでの約20㌔を何とか歩きました。

 途中の連島西浦小学校でのお昼休憩の時のことです。校庭の隅の石碑の土台に腰掛けて弁当を食べ始めたところ、私より10歳ほど年上の男性が「お隣よろしいか?」と声をかけてこられました。

 この追伸には「人との関わりを大切に」などとよく書いています。ところが、正直に言うと、あれは自分自身に言い聞かせているのです。私は決して人が得意ではありません。

 「どうぞ、どうぞ」と返しながらも、その後の言葉が続きません。そんな沈黙の中で知らない者どうしが、一緒に弁当を食べ始めました。

 それでも、ややあって後、先方からの「どちらから来られたんですか?」を皮切りにポツリポツリと話が始まりました。

 その方(仮にAさんとします)は、姫路から10年連続で参加とのこと。その日はとっても好天でしたが、10年間のうち2回雨にたたられ、合羽を着ての長時間歩行だったそうです。ウォーキング大会参加2回目の私でも、それがいかに大変であるかは容易に想像できます。しかも、Aさんは他のウォーキング大会には参加したことはないと仰います。が、倉敷に特別な何かがある訳ではありません。

 私はいつの間にか、Aさんのとつとつとした話しぶりに引き込まれていました。

 10年前にAさんは、ある知り合いの方に誘われて、このウォーキング大会に参加し、その方と何年か一緒に歩かれました。ところが、その後その方は亡くなられたのです。

 そこで止めても良かったんでしょうが、Aさんはこの大会に一人で参加されるようになりました。(おそらく、亡き人のことを思いながら・・・)

 私は何やら心が暖かくなり、「その方はよほど素敵な人だったんでしょうね」と訊きました。その時の「まぁ、ねぇ」と言うAさんの横顔には、人生の喜びも哀しみも噛みしめたような感がありました。

 どちらかと言うと人が苦手な自分ですが、お二人から何か大切なことを教わったような気がしました。

2018年4月号

 TKC全国会の会報に載った、株式会社ブレイド・イン・ブラストの中川理巳社長さんの講演録から以下引用します。

 「考え方を変えるには『素直な心』も大切です。ホンダ創業者の本田宗一郎氏は、役員を退いたあと、お世話になった全国のディーラーや協力工場に感謝を伝える旅に出ました。

 あるディーラーでは列を作って本田さんを出迎え、一人ひとりと握手をしていたのですが、列の後方にいた若い整備士だけ手を引っ込めました。直前までお客様の車の整備をしていたため手がグリースまみれで、このままでは本田さんの手が汚れると思ったからです。

 しかし本田さんは、『おいおい、なんで引っ込めるんだ。この手が本田技研を作っている。こういう手が好きなんだよ』と強引に手をつかんで何度も撫でたのです。すると二人の手の上に、その整備士の涙がポトポト落ちたそうです。

 感動という言葉はあっても『理動』という言葉はありません。人を動かすのは理屈ではなく感性です。素直な心で社員を褒めれば、社員もだんだん変わってくるのではないでしょうか。」


 このエピソードから何を感じるかは、人さまざまだと思います。しかし、キーワードの「感動」という言葉の通り、自分が「どう感じるか」と同じく、自分が「どう動くか」が大切ではないかと私は考えます。

 中川氏は「素直な心で動きなさい」と言っているようです。私たちは幼い頃から「学びによって知識を身につける」ことを教わります。しかし、要らないこと、余計なことを捨てることも大きな学びなのではないか、と私は思うのです。

 かく言う私だって、先輩には深々とお辞儀をするけど、そうでない人には軽く、時には雑な挨拶をしていることがあります。とても恥ずかしいことです。素直に考えれば、人はみな同じなのですから・・・

 また、街中の雑踏で困っている人に声をかけられるでしょうか。「今は急いでいる」「人の目があって気恥ずかしい」これらは知恵と言えるでしょうか。要らないこと、余計なことでしかないような気がします。

 自分が「どう感じ、どう動くか」を考えさせられました。

2017年12月号

 「裏庭の畑に蒔く鶏糞が要る」というお袋を近所のホームセンターに連れて行った時のことです。

 15kg入りを3袋買って、それを台車に乗せて駐車場に歩いて行く途中で、1番上の1袋が滑り落ちました。すこし下り坂なので台車をどう停めようか私がまごまごしていると、後から歩いてきた若い女性が「拾おうか」と言い、(ハッキリ言って臭い鶏糞の袋を)サッと拾って台車に乗せてくれたのです。一瞬何が起こったのかポカンとしてしまい、その後あわてて追いかけ、「ありがとうございます!」と言いました。

 人との関わりが苦手な若者が増えているらしい世の中で、とても驚き、大変嬉しい出来ごとでした。夕暮れ時でしたが、ご本人は茶髪で、連れの男性はピアスをしていました。私は二人を「カッコえ~」と思いました。

 自分自身が同じ状況で出来るか自問すると、自分の場合は「無視はしないが、手助けするかどうかちょっと考えてしまう」と思います。この「ちょっと考えてしまう」がくせ者です。

 われわれは、考えることはいいことだという思い込みがあるような気がしますが、「こんなときは考えない方がいい」のではないでしょうか。

 前号でも「人と人の関わりの大切さ」に触れました。人と関わることが苦手なのは、若者だけでなく、中年もシニアも大なり小なりあるわけで、私だって正直苦手です。

そんな余計なことは考えず、サッと一歩前に踏み出すだけで素晴らしいことになるのだと、その若者に教えられました。


 それから後、岡山駅から新幹線に乗った時のことです。私は3人掛けの窓際の席で、通路側に赤ちゃんを抱っこした若い女性が座りました。ちらっと見ると、(赤子はみんなそうですが)とってもかわいい。

 しばらくして、赤ちゃんがむずかって泣き出し、お母さんは席を立ちました。その後、私は少々居眠りを始めました。しばらくして目が覚めると、親子は席に戻っており、赤ちゃんはすやすやと眠っていました。眠くてむずかったようです。

 私が降りる新大阪駅が近づき、私は思い切って女性に「かわいいですねっ」と声をかけました。そのお母さんは私に「ありがとうございます。でも、うるさかったでしょう?」と言い、私は「とんでもない。子どもはみんなの宝ですから」と返しました。

 ささやかなやり取りですが、一声かけられたのも「鶏糞事件」があったからこそです。

2017年10月号

 私の日本水産時代の同期にK君という人物がいます。東北人らしく口数は少ないけど、人に向き合うときは必ず微笑む姿がとても素敵でした。

 実家が水産加工業を営む彼はいわゆる修行期間満了で、私は父の交通事故死を契機に、二人とも6年間お世話になった会社を退職しました。

 それから23年が過ぎて起きたのが、東日本大震災です。二代目経営者となったKが営む会社は宮城県の女川にあって、3つの工場のうち2つまでもが津波に押しつぶされました。数人の社員さんも犠牲になりました。家族は無事でしたが、すぐ後にお母様を癌で亡くしました。

 ずっと行き来はなかったのですが、その年の秋に女川を訪れ、ほぼ23年振りに再会しました。彼が案内してくれた高台から女川の町が一望できました。標高16㍍のその高台をも超える津波が、町をそれこそまるまる飲み込んだ事実と、そこで一所懸命に生きていた多くの人々の人生を奪った事実を突きつけられました。

 翌年春には、家内と子ども二人を連れて、再び女川を訪れました。そのときの奥様の手料理の金目鯛の煮付けの味は、いまだに我が家の語り草です。

 その後、幾多の困難を乗り越え、Kは最新鋭の工場を建てました。朝のテレビで新工場に立つ彼の後ろ姿を見た瞬間、Kだとわかりました。嬉しくて嬉しくて、すぐにお祝いの電話をしました。

 ところが、今年の春、彼の訃報が届いたのです。今度は悔しくて悔しくて・・・

 お盆明けに女川のK宅に家内とお邪魔し、お父様と奥様に再会しました。遺影はあの素敵な笑顔でした。4年前に癌で余命が短いことがわかっても、彼は「震災で一瞬にして亡くなった人に比べれば、自分には時間がある」と激痛に耐え、会社と社員の将来に不可欠な新工場建設を止めなかったそうです。いかにもKらしいです。

 苦難の連続の6年間だったのに、彼を取り巻くいろんな人の話をお二人としていると、暗くはなく、むしろ力をもらえるのです。なぜだか考えました。それは「人は人との関わりのまっただ中で生きている」という、しみじみとした実感がそこにあるからです。

 Kから会社経営を引き継いだお父様も、日本水産に入社したKの息子さんも頑張っています。帰り際に、「お父さん、お元気で繋いでいって下さい」と両手で握手しました。

 女川では大切なことに気づけました。平穏無事な岡山でも、Kの思い出とともに、人との関わりを忘れないで生きて行こうと思っています。




2017年6月号

 私は今57歳ですが、アタマがこんな格好にもかかわらず、「年をとったなぁ」と思うことは少ないです。あるいは思わないようにしているのかもしれません。

 しかし、周囲の人が弱った姿を見て、「年とったなぁ。弱ったなぁ」と感じるのは少々つらいです。

 大阪にいる叔父がそうです。数年前に胃癌の摘出手術を受けて以降、再発こそしてはいませんが、入退院を繰り返しています。

 叔父は、岡山に縁者のいない我が家に、親戚中で一番よく遊びに来てくれていました。また、大学生の時に私が岡山に帰省する際には、叔父の家にしばしば泊めてもらい、京都や奈良をブラブラしていました。

 忘れられないのは、叱られた記憶です。私が中学生のとき、叔父の家に家族全員で泊まらせてもらったことがあります。私は反抗期だったのでしょう。私が父にふと「おい」と言いました。そうしたら、叔父が烈火のごとく怒ったのです。「なんや、その口の利き方は!」という一喝に、私はいっぺんに縮み上がりました。(ちなみに、私の両親は黙って見ていました。)

 人が人と関わって生きる上で大切な礼儀というものを、ドンと教えてもらったのです。

 「マナー教育」と言います。優しく教えることも大切ですが、時には私が経験したようなことがあるのではないか、あるいはあるべきではないかとすら思うのです。

 今風なら「お前なぁ、『おい』なんて言うてええんか?」と優しく言うところでしょうが、そんなことでは、今ですらわきまえているとは言いがたい自分の礼儀は、もっとダメだったと思います。

 優しさにも「本物」と「偽物」、あるいはこれら二つに加えて「どっちつかず」があるような気がしますが、皆さんはいかがお考えでしょうか。

 ちなみに、私が息子を殴ったのはおそらく一回きりですが、その一回はやはり反抗期の息子が、家内のことを「おめぇ」と呼んだ瞬間でした。父と子で同じことをしでかすものかと、後で内心苦笑しました。


2017年5月号

 私は子どもの貧困が気になります。個人はさておき、「企業として何ができるか。できることはないよな」と思っていたら、3月に「企業の”強み”を子どもたちへ」と題する岡山弁護士会のシンポジウムを見つけ、参加しました。

 その中で、岡山市内の某学習塾の経営者であるN氏の講演がありました。たまたま私の子ども達がお世話になった、しかも子ども達がとても慕っていた名物塾長でした。世間は狭いものです。

 以下は、N氏が忘れられない、ある塾生の女子高校生の話です。


 母子家庭で、お母さんの年収が100万円ほどしかありませんでした。生活を支援してくれる人はいたものの、生活は当然苦しく、とうとうある日「塾代が払えない。塾をやめる」との申し出をN氏は受けました。

ところが、成績もよかったので、あれこれ考えたあげく、N氏はその子の家に電話をかけました。電話口に出たお姉さんに「これからの塾代はすべて将来の分割払いでいい。だから塾通いを続けませんか?」と話したら、「今払えないものが将来払える保証なんかないでしょっ!」と言われてしまいました。それでも諦めきれなくて、N氏は「なら、タダでいい!」と言ってしまいました。

 それから、その子は毎晩遅くまで自習室で、泣きながら受験勉強をがんばりました。そして、そして、彼女は見事に第一志望校に合格しました。N氏も一緒に泣きました。国立大学の医学部でした。N氏はその子の人生の扉が開いた感動で胸が一杯になりました。

 これがきっかけになって、N氏が経営する塾では、貧しい家庭の高校生の塾代を安価ないし0円にしています。(ちなみに、中学生には岡山市から塾代の補助が出ます。)

 しかし、塾代をタダにすることが経営者として許されるのか、経営者の自己満足を自社そして社員に押しつけているのではないか、N氏はずっと悩んでいます。

 そんな悩みを抱きながらも、N氏は「岡山市の貧困家庭の高校生の大学進学率を50%超にしたい」という夢も一緒に抱いています。高校生全体の大学進学率は77.0%ですが、たとえば児童養護施設にいる高校生の大学進学率は23.3%しかありません。それを岡山市だけでも2倍超にしようと、夢も悩みも一緒に抱えながら頑張っているN氏を、とってもカッコいいと私は思います。



2017年4月号

 私どもあおば税理士法人は「会計をお客様の経営に役立てたい」という一心で、がんばっています。しかし、逆にお客様から教えられることもあります。

 十数年前のことです。個人事業から法人化のお話をいただいて、田んぼの中の農業倉庫を改装した倉庫兼事務所で初めてA社長さんにお目にかかりました。

 そこで在庫管理の話になりました。商品数が少しだけだったので、私が「月々の変動は少なそうですから、毎月の棚卸(在庫のカウント)は省略していいですね」と申し上げました。

ところが、A社長さんは間髪入れず「商売(経営)だからやります」と仰いました。「やられたっ」と思いました。

 また、私自身が巡回監査を担当していた頃、確か11月の中旬、訪問してすぐにパソコンを開いて、監査対象である10月を見ると数字が良くて、「好調ですね」と申し上げました。

 ところが、またもA社長さんは間髪を入れず「でも、11月がダメなんですよ」と仰いました。

 A社長さんは売上と仕入を財務会計システム(FX2)に毎日入力されているので、日々の粗利(限界利益)を把握されていた訳です。「自分はデータを打ち込みながら、今月あといくら粗利を上げんといけん、と考えながら商売(経営)をやっています」と話して下さいました。

 このように「経営に役立つ会計」を実践されてきたからこそ、会社設立以来ずっと黒字という並大抵ではないことが成し遂げられた、と私は強く思っています。

 しかも、こういう地道でマジメなことを、ユーモラスに楽しくやる、そんな味がA社長さんにはあります。そういうところも見習いたいと常々感じています。


 昔から会社は「人、金(カネ)、物」と言い、近年はこれに「情報」を付け加えます。

 「情報」と言うと外部情報を思い浮かべる人が圧倒的に多いのではないでしょうか。国内や国外の政治や経済などなど・・・もちろん外部情報は大切です。中堅中小企業といえども、環境変化の波を受けない企業は一つもありません。

 ところが、社内にある内部情報、これも意外に重要なのです。禅で言う「脚下照顧(自分の足元をよくよく見よ)」と同じかと思います。


2016年6月号

 この3月のことです。就職直前の娘と二人で讃岐の金比羅さんにお参りしました。その参道に、清酒「金陵」の蔵元である西野金陵㈱が、「金陵の郷」という日本酒造りの歴史や道具を展示する施設を公開しています。

 同社のホームページから要約すると、江戸時代初期に琴平で創業した「鶴田屋」という酒造家がありました。寛政元年(1789年)、その鶴田屋の六兵衛から酒造株を買った阿波の藍商八代目の西野嘉右衛門から清酒「金陵」の歴史が始まりました。

 鶴田六兵衛が九代目の西野彦太郎に宛てた書状が、「金陵の郷」に現代語訳とともに展示してあります。酒造株を売ったとはいえ、先輩である鶴田六兵衛が後輩の西野彦太郎を諭す書状は、冒頭に「遠慮しながら申し上げます」とあるものの、内容は厳しいです。その中からいくつかを抜粋します。


 一、毎月月末には、営業状態をくわしく報告すること。

 一、およそ賭金の伴う賭事、勝負事は、一切してはいけないこと。

 一、料亭などの夜遊び等は、決して、してはいけないこと。

 一、値上りや値下りを見こしての見込み賣や、見込み買をしないこと。

 一、ご本家(事業主)といえども営業上の運用金を家事に使用してはならないこと。

 一、決定されたことは店の従業員一同によく周知して意志統一をはかること。

 

 いかがでしょうか。「営業状態のくわしい報告」と「営業上の運用金の家事使用禁止」は、まさに会計や財務の要諦です。「賭事、勝負事の禁止」は当然でしょう。「見込み賣や見込み買の禁止」には堅実な商いへの強い信念を感じます。「従業員一同への周知と意思統一」は、今で言えば全社一丸ということでしょうか。

 私は読んでいて背筋が伸びる思いがしました。200年以上も前の言葉ながら、現代にもそのまま通用する内容です。経営姿勢や経営手法の基本といったものは、そもそも普遍的な事柄なのかもしれません。



2016年5月号

 知り合いの幼いお子さんに絵本をプレゼントしようと思い、ある日の夕方に書店に行った時のことです。子供向けの本の売り場に、5歳位の男の子とそのお母さんがいました。男の子は本を見ながらしきりに喋っています。ところが、お母さんは黙ったままなのです。そっと見てみると、そのお母さんはスマホゲームに夢中でした。

 そういう時には「うん、そうだね」「なになに?」と子供に言葉をかけてあげてほしいと私は思います。(本当は「何やっとんなら! 相手しちゃれぇ」と言いたいところでしたが、無視されるか反発されるだけだと思って止めました。)

 電車やバスに乗っていても、横にいる自分の子供の相手をせず、ずっとスマホをいじっている若い親を結構見かけます。

 そんな風に育てられた子供は、大きくなって「コミュニケーションができない」と言われる社会人になるかもしれません。しかし、そういう能力云々よりも、その子の幸せをよくよく考えてほしいと私は思います。

 けれども、嬉しいこともありました。ある好天の日に、運動がてら公園の周囲を歩いていました。その公園の中を3歳位の女の子がヨチヨチ歩いていて、「かわいいなぁ」と思いながら見ていました。すると、その子の後方にいた若いお父さんが、「こんにちは」と私に声をかけてくれたのです。もちろん私も「こんにちは」と返し、その女の子に手を振りました。(坊主頭の怪しいオジサンにもかかわらず)女の子はニコッと笑ってくれました。

 親子と私との間には距離もフェンスもあったので、「こんにちは」と言わなくてもいいような状況でした。にもかかわらず挨拶してくれた父親は素敵です。私自身も嬉しいですが、「この子は幸せだなぁ」と思えることがもっと嬉しかったです。(本当はフェンスの向こう側に行って、「かわいいですね。抱っこしてもいいですか?」と言いたいところでしたが、「ヘンなオジサンと思われるかも?」と考えて止めました。)


 私は思っています。子供は宝です。その親だけでなく、みんなの宝、国の宝です。言うなれば、すべての子供が人間国宝です。

 私どもの仕事は子供と直接の関係が薄いようですが、「会計の力で黒字企業が増えれば、子供たちの幸せも少しは増えるのでは?」と考えています。


2013年12月号

 プロ野球の東北楽天ゴールデンイーグルスが日本一になりました。震災から二年半を経た東北の人達が大喜びする様を見て、私も胸が熱くなりました。


 さてさて、誰しも2人の父母がいて、祖父と祖母が4人います。曾祖父と曾祖母は8人います。ですから、父母は2の1乗、祖父母は2の2乗、曾祖父母は2の3乗います。その上の代(「高祖父母」と言うようです。)は2の4乗=16人います。

 ここから先は電卓を使いましょう。電卓のキーを「2×2=」と押すと4と表示されます。続けて「=」を押すと8、更に「=」を押すと16と表示されます。

 2の10乗は1,024です。10代前のご先祖は1,024人です。1代さかのぼるごとに倍々で増えていくので、どんどん増えていきます。

 20代前のご先祖は1百万人超の1,048,576人、25代前のご先祖は3千万人超の33,554,432人、30代前のご先祖は10億人超の1,073,741,824人、そして33代前のご先祖はなんと約85億人超の8,589,934,592人。これは今の世界の人口を超えています。

 膨大な数ですが、そのうち誰1人欠けても、今のあなたはいないのです。大変な数のご先祖のご恩があってこそ、今のあなたがあるのです。


 ここまでは、たまに聞く話です。が、考えてみると、33代前、すなわち1代25年とすると825年前の源平鎌倉の頃、86億人もの人間は地球にいませんでした。

 そうです。わかりますよね。86億人はダブっているのです。

 そしてそして、あなたのご先祖様は、私のご先祖様ともダブっているはずです。

 すなわち、この世の中の人は、すべて血がつながっています。

 言葉が存在すると、その言葉が表すものが実存すると誰しも思います。ところが、必ずしもそうではありません。「他人」という言葉はありますが、この世に「他人」は存在していません。「血のつながりがない親子」というのもありません。

 大好きな親友だけではなく、小言が多く苦手な上司も、よく店に来るクレーマーも、「他人」ではありません。あなたと血がつながっています。

 日本人だけではなく、少なくとも近隣諸国の人々とも血のつながりはあります。


 東北の大震災の時に、宮城県警の行方不明者リストを見ていて、高橋悠さん(当時18歳)という私の娘と同じ名前、同じ年齢の高校生を見つけ、愛する人を突然失う悲しみが一気に襲ってきました。

 日々いろんな人と接する際、立場などの「違うこと」よりも「人は皆つながりがある」ということを、頭の隅に置くよう心がけています。